もう一つの仏教学・禅学
新大乗ー現代の仏教を考える会
女性と仏教
−平塚らいてふ
禅に裏づけられたらいてふのことば
平塚らいてふは、その思想的基盤が禅と強くかかわっており、健康の点でも坐禅がよいといっている。そこで、若い人に坐禅をすすめている。自伝や大月書店発行の『平塚らいてふ全集』から、彼女が禅をすすめる言葉をひろってみます。
禅はすべての宗教を包む
禅には宗派意識がないので、本当に我を脱落した教えをすべて肯定する。自我を脱落したところに自覚するものが、神、ほとけ、阿弥陀仏、無相の自己、などと何と呼ぼうと、同じものをさしていることがわかるからである。念仏の妙好人(讃岐の庄松など)、キリスト教(エックハルトなど)でも、そういう人がいる。それがわからない僧侶や学者は低く解釈してしまうのである。
らいてふは、キリスト教を信じている娘に、自分の若いころを語る。哲学、キリスト教、綱島梁川の『予が見神の実験』、今北洪川の『禅海一瀾』、両忘庵に参禅などを語り、禅はキリスト教をも包むものであるから、あなたがキリスト教を信仰することを止めないと語る。禅は排他的ではない。他の信仰者を無理にやめさせることはない。禅で悟ると、聖書のキリストの言葉が禅と通じるものがあるとわかるから、らいてふは、娘に「わたしは、キリスト教の髄を得ている」とまで言った。禅とキリスト教の類似性については、滝沢克巳や秋月龍aなどの著書に詳しい。
「もしお母さんが禅をやらず、こんな自由な信仰をもっていなかったら−・・・
きっとお母さんはあなたの今の信仰や生活に対し、これだけの自由な、肯定的な態度ではいられまいと思うのですけれど−。」
「たとえ過去のお母さん自身は前に言ったとおり、キリスト教にはむしろ浅い因縁しかありませんでしたけれど、今日のお母さんはキリスト教がまとっている衣や、その衣の色や、形にその影などに迷わされず、かえって端的に、その骨を、髄を、生命そのものをつかんでいりつもりなのです。」
「あなたはまだキリスト教だの、仏教だの、神道だのなんのといって別々なものとして見えるのでしょう。しかし生命の真理(大道)を見るものにとっては一つです。」(四十九歳の時、全集6巻、十八頁)
坐禅をすすめる
婦人に学生時代に坐禅をすることをすすめる。坐禅していなかったら私の生命は今ごろとうに枯れ尽した、という。
(『修禅について』第五巻274頁、1931年、45歳)
「ふた昔前、純真な一本気な娘時代の私が全生命をかけて精進したあの禅の猛修行は(若ければこそできたと今にして思います)たとえ今、私自身は忘れてしまっていても、私の現在の生活に、いいえ私の、おそらく全生涯を通じて、このからだと心とを離れないひとつの強い習慣となっているということは。」
「まったくこの私に座るということがなかったなら、私の生命は今ごろとうに枯れ尽し、私の力はとうに擦りへらされて固定した思想や型の中に窒息していたかもしれません。今日こうして日に新たな心をもって、希望と勇気と確信と多くの詩とを、この生ける自然と人生から与えられているのは座るおかげだといっても言いすぎではないでしょう。そうして生活するうえの私のこのひとつの癖が若い時にやった修禅によることを思うとき、他の同窓たちが勉学に専念する貴重な時日をただ黙々と打座(だざ:坐禅する)に消費したことが、その当時周囲の誰かれから笑われたほどそう馬鹿げた真似でなかったばかりか、少しばかりの知識の獲得よりも、はるかに私の生涯にとっては有意義であったことを省みて、感謝せずにはいられません。」
「これからの婦人の現実生活はますます複雑、難渋なものになるばかりです、少しでも余裕のある学生時代に早く奮発心を起こされ、この重大な社会的変革期を、婦人として善処しうるだけの確固たる精神生活の基礎を得られますよう切望いたします。」
(四十五歳の時、全集5巻、二七四頁)
自分を知る坐禅
六十一歳の時には『あなた自身を知れ』という文章で、若い女性よ、あなた自身を知れ、そのために坐禅をと訴えている。
「若き友よ、あなたは、あなたご自身をご存じですか。」
「あなたという人間を生んだこの大きないのちは、それがいつも宇宙いっぱいに満ちみちているように、自分がこしらえたあなたの内にも同じようにいっぱいにはいっています。」
「あなたは神様に抱かれ、神様の懐のなかにいますが、神様もまたあなたに抱かれ、あなたの懐のなかにいられるのです。」
「自分の正体はどんなものか、静かに座って、あなたの眼を心の奥底まで沈めてよくよくさがしてごらんなさい。・・・毎朝または毎夜三十分くらいはできないはずはないと思います。これを幾日か繰り返しているうちに、あなたはきっとわかって下さいます。わたくしの言うことが嘘でも、思い上がりでもないということを、いいえ、昔からすでに明らかにされている真理だということを。」
「聖書をお読みになったあなたは、キリストが「われはアブラハムの生まれぬ前よりあるものなり」とおっしゃったことをご存知でしょう、どれもみんな同じ自覚ですね。そしてここに忘れてならないことは、これは特別に偉い人、選ばれた人だけがそうなのではなく、あなたもそういうこのわたくしもまたわたくしのまわりにいる多くの老若男女誰一人として、そうでないものはないということです、そうでないのは知らないからだけのことなのです。」
「人は誰でも自分自身を知るとき、神を知り、同時に神と人との関係を、また神において一つである人と人との関係をもあわせて知ることができます。」
「若き友よ、あなたご自身を知れ」
(六十一歳の時、第七巻、一八頁)
『学校を出たころのわたくし』
(第七巻 23頁、1948年、62歳)
−自我をとおして神に入る
若いころの坐禅修行体験を述べた後、自己を、神とひとつの自己を知ることをすすめる。神とひとつの自己だから、禅をすすめているのです。神の裏づけのない自我には価値がない。
「今、わたくしは自我から神にたどりつく女子大卒業前後の自分の求道の姿をおもい起こし、深く省みながらおもうことは神の裏づけのない自我に、言いかえればひとりびとりの自我の奥底に存在する神を自覚しないものの自我にどれだけの尊厳があるかということです。民主主義という言葉が終戦後の合い言葉となり、自我の尊厳というようなこともしばしばうたわれるこのごろ、その要件である神性がまったく忘れられているのは、これもやはりただの言葉であって、みずからの意識で認めているのでないためでしょうか。ひとりびとりの自我がみな神を根とし、神において一つであることの自覚なしには、お互いの間のほんとうの平等も、尊敬も、愛も、平和もありえないと思います。今の若い世代がおのれを知り、神を知る(これは一つことです)ことがやはりわたくしには願われてなりません。」
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